【第25話】 絵画史上最高の日曜画家 ルソー

クーニャ:みなさん、こんにちは。
アトリエクガニール広報部長のクーニャです。

ボクはこの前、通りがかりの人に「おじいさんですか?」と聞かれて、大ショックだったのニャ!
ボクは先日5月17日で2歳になったばかりのピチピチなのニャ。
マッタク!見る眼がないのニャ〜。
あの人は、クガニールで、見る眼を養ったほうがいいのニャ。



くー太:少し太りすぎではないでしょうか?
運動もほとんどされていないようですし・・。

クーニャ:そんなことはないのニャ!
ゴハンはちょこっとしか食べさせてもらえないし、部下のミンスケを獲物代わりに、毎晩、狩りの練習だってしているのニャ。
ほーら、ボクはこーんなにスマートなのニャ!!

くー太:うーん。残念ながらそれは妄想だと思います。

クーニャ:・・・・。
あ! 妄想で思い出したのニャ。
今日はみなさんに、愛すべき心象風景を描いた絵描きさんを紹介しようと思っていたのニャ。
その人は、171年前の今日(5月21日)、フランスに生まれ、絵画史上最高の日曜画家と言われているのニャ。

くー太:ほう!? どなたでしょう。どんな絵を描かれたのですか。

クーニャ:これは、「カーニバルの夕べ」(1886/42歳)。 傑作なのニャ!

くー太:この絵は、フィラデルフィア美術館で観た覚えがありますねぇ。
確か・・・ アンリ・ルソーさんじゃないでしょうか?

クーニャ:さすが クガニールのトリ締役、ミミズクの精霊 くー太さんなのニャ!

くー太:恐れいります。そんなに私を紹介しなくても、もうみなさんご存知かと思います。
ただ、ルソーさんの名前は知ってるけど、どんな方かはあまり知らないですねぇ。

クーニャ:この方がルソーさんです。

***
アンリ・ルソー(Henri Rousseau)は、1844月5月21日にフランス北西部の街、ラヴァルに生まれました。
父親は、ブリキ職人でしたが、不動産に手を出し、ルソーが7歳の時にルソー家は破産。
1863年、軍隊に入隊しますが、1868年、軍隊を抜け、パリへ移り、下宿屋の娘クレマンスと結婚。
1870年、最初の子供が生まれるも、翌年、死亡。
1871年、パリの入市税関に見習いとして仮採用され、翌年、入市税関史となりました。
***

くー太:ほう! 税関史ですか。うーん。絵には全く関係ないのですねぇ。

クーニャ:ボクのリサーチによると、ルソーさんは、ドウァニエ(税関史)・ルソーとも言われてるのニャ。
正確に言えば、ドゥアニエ(税関史)じゃなく、ガブルーって呼ばれる、入市税徴収員だったらしいのニャ。
この仕事は、パリの城門(市外から市内への門)で市外から酒や穀物などを持ち込む商人・農民から入市税を取立てたり、不審な人が市内に入らないよう見張ったりする、とっても大変なお仕事だったらしいのニャ。

くー太:それでは、そんな大変な仕事の合間に絵を描いてあったのですね。
それにしても、丁寧に描かれていますねぇ。

OKUAKI:ルソー作品の魅力のひとつは、とにかく丁寧に描ききっているということだよ。

クーニャ:ニャッ! またいつの間にか、オクアキ先生が来ているのニャ。

OKUAKI:ルソーは30歳を過ぎた頃、絵に目覚めたんだ。41歳の時(1885年)に、サロンに2点の作品を出品するが落選。翌年1886年から毎年アンデパンダン展に出品した。美術評論家は、こぞってルソーの作品を嘲笑する記事を書いたらしいけど、ルソーは気にするどころか、絵画への情熱をどんどん高めていったんだ。ルソーは親戚に絵描きがいて、少し手ほどきを受けたという話もあるけど、基本的に独学だから、他のプロの絵描きのようなデッサン力はない。しかし、イメージを現実に感じるほど思い込みが激しい妄想家だったのが、結果として、プラスに働いたんだね。 イメージ力の勝利だね。

クーニャ:オクアキ先生は、ボクの言うことを取っちゃいけないのニャ!

くー太:他にも作品を見せていただけますか。

クーニャ:これは、「フットボールをする人々」(1908/64歳)ニャ。

くー太:これは、スポーツしてるのに、何か不自然ですねぇ。
大体、フットボールは、足で蹴るものでしょう。これは、まるでラグビー※ですよ。
(注:この時代のフットボールは、手も足もOKでした。後に、今のラグビーとサッカーに分かれました。) 
それに、後ろの人は・・・・ボクシングをしてるんでしょうか?
うーん、どうしてこんな不可思議な絵を描いたのでしょう?

クーニャ:フットボールは、当時イギリスで生まれ、フランスに伝わり、大流行したのニャ。
ルソーさんは、お散歩中に見た光景を、絵にしたのニャ!
オクアキ先生、いったい何で、この絵は不思議な感じがするのかニャ?

OKUAKI:スポーツをテーマとする場合、表現のポイントは、「動き」。
しかし、ルソーが描く選手たちはみんな、「ストップモーション」で、浮いている。それに4人しかいないし、同じ顔。(人間、木の形は、複数の写真を参考に描いた。)
当時の絵描きにはありえないデッサン力と解釈(捉え方)、それが、ルソーの絵をオンリー ワンとしたのだと思う。
ルソー本人は、「スポーツ風景」を描いたとしても、結果、それは「心象風景」となる。
人とは違う「ルソー独自の捉え方」、つまるところ、これが「絵ごころ」ってことじゃないかな。


クーニャ:3枚目の作品を紹介するのニャ。
この作品は「眠れるジプシー女」(1897/53歳)。ボクはこの作品が好きなのニャ。
ルソーさんは、この作品に並々ならぬ自信があったらしいのニャが、全く理解されず、評価は惨憺たるものだったらしいのニャ。



OKUAKI:これは、代表的な心象風景画といえる。
月夜の砂漠と山脈という空間設定、そして比較的リアルなライオン、トロピカルな衣装を着た人形のような女性、楽器、壷。
これらの意外な組み合わせが、静寂の中に、今までにはなっかった新たな美を創り出している。

くー太:なぜ、このライオンは、ジプシー女を食べないのですか?

クーニャ:これは、ルソーさんの手紙によると、「詩的な月のせいである」ということなのニャ。
ルソーさんの色は、とても心地よい響きを感じるのニャ。(ルソーは、音楽にも精通しており、ヴァイオリン、フルートを演奏していた)
実は、この絵を描いている時、息子のアンリが亡くなり、ルソーさんは一人ぽっちになっちゃうのニャ。孤独でお金もないのに、こんなにも魅力溢れる傑作を描き上げたのニャ!

くー太:ルソーさん、スゴイですね。
ルソーさんは、素人絵描きで、みんなから馬鹿にされていたのに、いつから歴史に残る絵描きとして認められたのですか?

クーニャ:それは、とても良い質問なのニャ。ルソーさんが世間に知られるようになるきっかけは、じつは、他でもないピカソさんなのにゃ。ピカソさんは、パリのモンマルトルの古道具屋で、ルソーさんの絵を偶然発見し,手にいれることになったのニャ。ピカソさんは、ただ同然で手に入れたこの絵を描いた画家を探しました。
この絵は「古キャン」として売られていたのニャ。古キャンというのは、貧しい絵描きたちが、絵を塗りつぶして使うキャンバスのことです。危うく塗りつぶされるところだったのニャ!ルソーさん、セザンヌさんなど、今では有名な絵描きさんたちの作品も有名になる以前は、古キャンとして塗りつぶされたりしていたの二ャ。ニャンともったいニャい! 
価値がわからないというのは、実に恐ろしいことニャ!!

間一髪、ピカソさんに救われた「女の肖像」(1895)ニャ!
  
「ルソーを讃える夕べ図」


1908年、探し出したルソーさんを絵描き仲間に紹介するため、ピカソさんは、あの有名な集合アトリエ「洗濯船」で、詩人であり美術評論家のアポリエールと共に、「ルソーを讃える夕べ」を催したのニャ。
「女の肖像」が、「ルソーを讃える夕べ図」の中央奥に掛けてあるのに気づいたかニャ?
その前にバイオリンを持って立っているのが、ルソーさんなのニャ。
この夜会は、美術史でも非常に有名で、ジョルジュ・ブラックなどの有名な画家や詩人がたくさん出席したのニャ。
そこで、ルソーさんを讃える詩などが読み上げられたのニャ!
実は、集まった人たちは、ピカソさんの冗談、パーティの余興だと思っていて、本気で彼を讃えるための会だとは思っていなかったらしいのニャ。
でも、ルソーさんは、世界一の絵描きになった気分で、心底喜んでいたそうニャ。

OKUAKI:ピカソは、大変な目利きで、ルソー以外にも何人もの絵描きを世に紹介したんだ。
ピカソは盤石たる基礎がある完璧な画家でした。対してルソーは、自分のイメージが全てでした。
ルソーは、絵を描きはじめると、現実と空想の区別がつかないほど、空想の世界に完全に入り込んでいたそうです。
ピカソは、自分に描けない何かを、ルソーの絵に見たのです。


クーニャ:ルソーさんの一生は、本当に可哀想なのニャ。子供のほとんどは、自分より先に亡くなるし、奥さんにも若くに先立たれ、貧乏続きで本当に辛い人生だったはずなのニャ。さらに晩年は、ルソーさんがお人好しなのを利用され、悪事を働かされ、牢屋に入ったりもしたのニャ。

くー太:ルソーさんの絵は、そんな「辛い現実」から逃避するための空想・妄想が生んだかもしれないですね。
ルソーさんは、そんな境遇でも絵への情熱を失うことなく、描き続け、史上最高の日曜画家といわれる画家となったのですね!

クーニャ:ピカソさんが「ルソーを讃える夕べ」を開いたのは、ルソーさんが亡くなる2年前、64歳の時なのニャ。
晩年にちょっと報われて良かったのニャ。この同年に、先ほど紹介した「フットボール」の作品を描いているのニャ。そして、ルソーさんが牢獄に入っていたのは、その前年ニャ。だから、ユニフォームが囚人服そっくりなのニャ!

OKUAKI:そうゆうことだったんだ!

クーニャ:ボクも空想大好きなのニャ。
ほらほら、ボクはこんなにスマートでカッコいい ネコしゃんなのニャ!

くー太:なるほど。
クーニャ部長は、空想を楽しんでおられたわけですね。
でも・・・そこは、現実を見つめたほうが良いかと思われますすが。

クーニャ:まったく うるさいのニャ。

今日も面白かったのニャ!
皆さん、最後まで読んでくれてありがとニャ〜。

最後になりましたが、クガニールの会員作品ページに、3月・4月の優秀作品も掲載したので、こちらもご覧ください。
次回も楽しみにニャ!スタンプ

絵画教室アトリエクガニール
http://www.kuganeel.com/



 

【第19話】抽象絵画が花咲いたふたつの都 競縫紂璽茵璽

こんにちは。
絵画教室アトリエクガニール広報部長のクーニャです。

前回から、またまた大変おまたせしてしまい、本当に申し訳ないのニャー。
さて今日は、前々回【第17話】抽象画  パリ に続き、抽象画供.縫紂璽茵璽 ニャ。



抽象絵画は、戦争が終わると共に、2つの都市で花開きました。
ひとつは、フランスのパリ。
もうひとつは、アメリカのニューヨーク。

今日、紹介するのは、ニューヨークに集まった抽象表現主義の5人の画家です。

1935年、ホイットニー美術館が開催した「アメリカ抽象絵画展」により、抽象画に脚光が集まりはじめました。
この頃から、ナチスの迫害を逃れるため、旧ロシア、ヨーロッパから多くの芸術家たちが、アメリカに亡命しました。
ニューヨークは、人種のルツボとなり、新しい芸術が花開いていくこととなります。

ニューヨークの抽象表現主義の画家たちの活躍により、1950年代後半から、20世紀美術の中心は、パリからニューヨークへと移っていきました。


.献隋璽献◆Εキーフ(Georgia O'Keeffe /1887年11月15日 - 1986年3月6日/アメリカ)

クーニャ:はじめに紹介するオキーフさんは、奥秋先生お気に入りの女性画家なのニャ。
先生によると、自分の世界が、都会ではなく、大自然にあることに気づき、いち早くニューヨークを去り、ニューメキシコの砂漠の中で、心象風景を描き続けたアメリカ最高の女性画家さんということなのニャ!
題名のPelvisとは、骨盤のことなのニャ!

「Pelvis 掘廖1944
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▲◆璽轡襦Ε粥璽ー Arshile Gorky/1904年4月15日 - 1948年7月21日/アルメニア→アメリカ

ゴーキーは、トルコ生まれのアルメニア人です。
ゴーキー11歳の時(1915)、数十万人のアルメニア人がトルコ軍に虐殺された「アルメニア虐殺」が起こり、母や姉妹とともにロシアに移住しました。しかし、アルメニア人居住区の生活は過酷で、ゴーキー14歳の年、母親は餓死してしまいました。
生き延びたゴーキーと妹は、1920年、父のいるアメリカへ移住しました。
初期は、セザンヌ、ピカソ、ミロにそっくりな作品でしたが、30代半ば頃に自分のスタイルを見出し、築いていきました。
しかし、アトリエ火災による作品の焼失、病気や事故、離婚など、晩年度重なる不幸が続いたゴーキーは、44歳の若さで自ら命を絶ちました。
ゴーキーの作品は、あまりにも美しく、そして儚(はかな)く、孤独に満ちた魅力を放っています。

クーニャ:ゴーキーさんは、奥秋先生のイチ押しの抽象表現主義の画家さんなのニャのだけど、本当にかわいそうな人なのニャ。
こんなに苦労したのに、ゴーキーさんの色は、とってもきれいなんだニャー。

「Agony」 1947
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ジャクソン・ポロック Jackson Pollock/1912年1月28日 - 1956年8月11日/アメリカ

ポロックは、アクションペインティングの創始者で、抽象表現主義の象徴的画家です。
クーニャ:アクションペインティングの代表的技法は、キャンバスを床に広げて、エナメル絵具を、棒きれや、大きな刷毛で垂らしながら描いていく「ドリッピング」や、線を描く「ポーリング」などの技法が有名ということなのニャ。
OKUAKI:実は、ごの技法は、日本で遥か昔に陶器の絵付けの技法「イッチン技法」として使われていたんだ。
クーニャ:絵具を垂らすなんて、楽しそうなのニャー! ボクもできるかニャー?
OKUAKI:リズム感がよければ、できるかもね!
クーニャ:ボクはリズム感のかたまりなのニャー♪

「Full Fathom Five」  1947
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ぅ如Εーニング Willem de Kooning/1904年4月24日 - 1997年3月19日/オランダ→アメリカ

デ・クーニングは、オランダのロッテルダムで生まれ、青年期は商業美術の会社で働きながら、ロッテルダム美術工業学校の夜間部で勉強しました。22歳の時に渡米。同時期アルメニアから渡米してきたゴーキーと知り合い、影響を受けました。

「Easter Monday」 1956
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ゥ沺璽・ロスコ Mark Rothko/1903年9月25日 - 1970年2月25日/ラトビア→アメリカ

ロスコは、当時ロシア領だったラトビアに生まれましたが、両親がユダヤ系だったため、ナチスの迫害を逃れ、10歳の時にアメリカに亡命しました。若いころ は、グラフィックデザインなどを学んだロスコですが、40歳代には独自の絵画スタイルを生み出し、一躍、有名画家になりました。ロスコルームとして有名な ロスコの作品群は、彼の死後、.蹈鵐疋鵝淵董璽函Ε皀瀬鵝 ▲錺轡鵐肇DC(フィリップスコレクション) 千葉県(川村記念美術館・ロスコ ルーム)の3つの美術館に収蔵されることとなります。

「Slate Blue and Brown on Plum」  1958
DSC_8454.png

クーニャ:以上、2回に渡って、抽象画家10人を紹介しました。
 他にも、たくさんの抽象画家がいるので、お気に入りの一人を見つけると楽しいのニャ。

それでは、次回は2月の人体画・人物画の優秀作品を紹介するのニャ。
またお楽しみにニャ!スタンプ



 

【第17話】抽象絵画が花咲いたふたつの都 汽僖

クーニャ:皆さんこんにちは。
絵画教室アトリエクガニール広報部長のクーニャです。
たいへんお待たせしてしまったのニャー。

今日は節分なのニャ。
ぼくは、アカオニさんをやっつけたのニャー!
これで、クガニールも また一年 安泰なのニャ♪

クーニャ:17という数字は、クガニールにとって、とても大切なのニャ!
記念すべき第17話は、抽象絵画のお話なのニャ〜。
…と言っても、奥秋先生… 抽象って何ニャの?

OKUAKI: 絵画を大きく分けるならば、具象絵画と抽象絵画に分けられる。
具象とは、「対象の姿・形・空間を備えていること」
たとえば、クーニャを描いた場合、迷わず、ねこだとわかるなら、具象。
それに対して、抽象絵画は、具象絵画のような対象物がない。もしくは、対象物の説明をしない。

また、抽象絵画には、「半抽象」と「完全抽象」があります。

半抽象は、具体性が残っているもの。モチーフがクーニャの場合、クーニャを写すのではなく、印象や興味のある部分に焦点をあてて描いているから、ねこかな〜?って感じで十分なんだ。

完全抽象は、クーニャのイメージからスタートしているんだけど、形は全く残っていない。
もしくは、もともと具体的な対象がなく、幾何学的な形や、色そのものから生まれたイメージを表現したもの。

クーニャ:分かったのニャ!
この前、クー太トリ締役がボクを描いてくれたんだけど、ボクには似ても似つかなかったのニャ!
クー太さんは、きっとボクの抽象画を描いてくれたのニャ〜。

OKUAKI: ・・・。それは、形が取れてなかっただけかもネ。
それでは、本題に入ろう。


抽象絵画は、戦争が終わると共に、2つの都市で花開きました。
ひとつは、フランスのパリ。
もうひとつは、アメリカのニューヨークです。

今日は、パリに集まった多くの画家たちの中から、5人の抽象画家を紹介します。
最初に紹介するのは、戦中戦後を通して、自分の世界を模索していた「アンフォルメル」の画家 、ヴォルス と マチュー です。

クーニャ:アンフォルメル」 informel は、フランス語で「 非定形」 を意味するのニャ!

ヴォルスは、小さな頃からバイオリンなどの手ほどきを受けていました。 絵を描くことは、ヴォルスにとって、ギターやバンジョーを弾き鳴らす行為となんら変わらぬものでした。
晩年は、さらに直感に従い、思うがままをキャンバスにぶつけ、魅力に満ちた精神世界を描きました。
観る者は、いつのまにかその神秘的な世界に引きずり込まれてしまいます。

.凜ルス(Wols/1913-1951/ドイツ生)   「パンチュール」 1945


マチューは、線の魔術師ともいうべき画家です。
美しい色、即興的な線を駆使し、この上なく優美で詩情豊かな空間を創りあげました。

▲献腑襯献紂Ε泪船紂次1921-/フランス生)      「ダーナ」  1958


次に紹介するポリアコフの言葉です。
「職人が画家であるのはよいが、画家が職人であってはならない。」
ポリアコフは、選び抜いた色と形を、ペインティングナイフで、丁寧に塗り重ねることで、繊細で力強い世界を構築しました。

セルジュ・ポリアコフ(1906-1969ロシア生)    「コンポジション」 1954


私は、好きな女性画家が2人います。
その内の1人が、 ヴィエラ・ダ・シルバです。
彼女は、近代の建築・街並をモチーフとした独自の世界を描きました。
この作品もビルを抽象化したもので、右端に螺旋(らせん)階段の痕跡を観ることができます。


ぅ凜エラ・ダ・シルバ(1908-1992ポルトガル生)    「 Inside the spiral 」 1949


ド・スタールは、「具象と抽象の間(はざま)」を最も美しく表現した画家です。
対象物から、魂とも言える「生命感」を、抽象形態としてワシ掴みできた唯一の画家と言えるでしょう。
そぎ落とされた後、そこに存在するのは、「ノスタルジアに満ちた純粋なる世界」です。

ゥ縫灰蕁Ε鼻Ε好拭璽襦1914-1955/ロシア生) 「パリの屋根」1951
 

「 船 」1955


抽象画第2弾「供.縫紂璽茵璽」は、【第19話】です。 楽しみにしているのニャ!
次回【第18話】は、1月24日の人物画優秀作品を紹介するのニャ。

それでは、またなのニャスタンプ



 

[第11話]クガニールアートレクチャー終了!

みなさん、こんにちは。
絵画教室アトリエクガニール広報部長のクーニャです。
12月に入って、急に寒くなったのニャ〜。
毎日布団から出るのが辛いのニャ…。
kuna1.png

さて、先日の日曜日、12月7日は、
第5回 クガニールアートレクチャー  「名画の見方」
ー 愛すべき絵、愛すべき画家との出会い − が開催されました。
3時間に及ぶレクチャーでしたが、皆さん熱心に聴講されていました。
寒い中、たくさん来ていただき、ありがとうございました♪

アトリエクガニール2F マジョルカホールにて

ボクも一緒に聴いてたのニャ!
え?  ずっと寝てたんじゃないの?って!
ニャ、ニャ、ニャンと! 失礼ニャ!! 奥秋先生の横で、ちゃんと聞いてたのニャ!



取り上げた作家と作品
ピーター・ブリューゲル(1525-1569)…「冬の狩人」
エル・グレコ(1541-1614)…「トレド風景*」
ディエゴ・ベラスケス(1599-1660)…「ラス・メニーナス*」
フランシスコ・ゴヤ(1746-1828)…「鰯の埋葬*」
ポール・セザンヌ(1839-1906)…「赤いチョッキの少年」「キューピッドのある静物」
「レ・ローブから見たサント・ヴィクトワール山」
オディオン・ルドン(1840-1916)…「白い花瓶と花」
アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)…「自画像」
パブロ・ピカソ…「マダム カナルス*」「アビニヨンの娘たち*」「ゲルニカ*」


良い構図、形、色彩(ヴァルール)、導線など、色々な要素が名画には備わっています。
しかし、実際、重要なのは、「その絵が、自分にとって、魅力的であるか、ないか」です。
このレクチャーでは、美術史に残る名画の中から、
「奥秋講師が、実際に観て感動した絵*」と、
「奥秋講師が、今後、絶対に本物が観たい絵」を選びました。

みなさんも、たくさんの絵に触れて、「自分にとっての名画」を見つけてください。
見つけたら、なんらかの問題意識を持ち、知性と感性をフル活用し、名画を楽しんでください。
きっと、絵のほうから何かを語ってきてくれるはずです。


ボク(クーニャ)が、心に残った話を、すこし…


ブリューゲル「冬の狩人」
情報が多い絵が、良い絵ではありません。
この絵で、狩人は、シルエットに近い扱いで描かれています。
説明しすぎない事で、観る人が、狩人になり代わって、絵の中にいるような臨場感を感じることが出来ます。
名画は、観る人が、自由に絵に入り込める「隙」をも備えているのです。


ゴヤ「鰯の埋葬」
ゴヤは、宮廷画家を目指し、いつも、昇進ばかりを考えていました。
46歳の時、大病にかかり、治った時には、耳が全く聞こえなくなっていました。
死ぬ目に会い、それをきっかけに、ゴヤの心境は大きく変化しました。
人に評価される絵を描くのではなく、「自分が描きたいものを描く」と。
「鰯の埋葬」は、耳が聞こえなくなった翌年、もしくは翌々年の作品です。
小さい絵(83×62)ですが、民衆のエネルギーに満ち溢れたスケールの大きな作品です。


セザンヌ
セザンヌは、40歳を過ぎても、下手な絵描きだと嘲笑され、ほとんど評価されることはありませんでした。
しかし、自分を信じ、自分の絵を描き続けた結果、「近代絵画の父」とまでいわれる画家となったのです。
ほとんどの人が、宝を見つける前に、掘るのをやめてしまいます。
しかし、セザンヌは、一人、掘り続け、その手で宝を掴みました。


ピカソ「ゲルニカ」
「ゲルニカ」は、第一次世界大戦と第二次世界大戦の間の 1937年 に、スペイン共和国が、パリ万博のため、ピカソに依頼した作品です。349×777という大きな作品にもかかわらず、ピカソは、僅か1カ月で完成させました。
今回のレクチャーでは、ピカソの恋人の写真家ドラ・マールが撮影した「ゲルニカ製作過程写真」と、「歴史的背景」を照らし合わせることで、ゲルニカを深掘りしました。
美術評論家や記者は、よく「絵の意味」を聞きたがります。
しかし、ピカソは、作品について、ほとんど説明することはありませんでした。
絵は、生き物であり、観る人、観る時代が変われば、解釈も変わっていくことを知っていたからでしょう。

近代絵画の礎をセザンヌが創り、後継者ピカソが、20世紀美術の主柱となったのです。
そのピカソの集大成と言える作品が、この「ゲルニカ」です。

*****
レクチャーの後は、一階のカフェアルマで、恒例のクリスマスパーティがあったのニャ。
とっても楽しかったのニャー!
2014年のクガニールのイベントは、これでおしまい。
クガニールのみなさん、いっぱい勉強して、2015年は、ますます、魅力にあふれた絵を描いてくださいニャ。

第12話は、お楽しみにニャスタンプ by クーニャ広報部長




 

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